『大人になることのむずかしさ』を読んでみた


臨床心理で有名な河合隼雄さんの著書『大人になることのむずかしさ』を読みました。
子どもの”急激にあらわれる不可解な現象”から紐解く、”大人になることのむずかしさ”について書かれています。
例えば、反抗期がそれに当たるのでしょうか。昨日までは話を聞いてくれたのに、今日になって突然聞く耳を持たなくなるとか。家族で外食するのが嫌になって付いていかないとか。ある日突然、親の手の届かないところへ行ってしまったとか。
私自身、子どもはまだ小さいので、親の立場として経験していませんが、子どもの立場としては経験しました。きっと、皆さんもご経験があるのでは?

大人になることのむずかしさ

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「つまずき」の経験を通して成長する

本書では、

青年期には誰しもいろいろな「つまずき」をする。「つまずき」をしないものは青年ではない、といってもいいかも知れない。

とあります。「つまずき」をkey wordとしてみたとき、そこから何が分かるのでしょうか。
赤ちゃんは歩くようになると、転んでも転んでも何度でも立ち上がって歩こうとします。大人だったら、もう嫌になって止めてしまうだろうなと思ったものです。
これは「つまずき」にならないと思います。なぜなら、自分という存在が揺さぶられる程のことではないからです。つまり、「つまずき」は、「私」という存在をかけて社会の壁にぶつかり、新しく自分の世界を築こうとする現象ではないでしょうか。
「私」という存在は、それまで「親」という枠の中にありました。しかし、それは「親の世界観」であり、「私の世界観」ではありません。「私」という存在に不思議を覚えると、もはや既存の世界観に収まっていることができなくなるのではないでしょうか。

子どもも世界観をもっている。しかし、それは成長すると共に大幅に変化しゆくものである。大人というのは、それなりに比較的安定した世界観をもっている存在ということができようが、子どもは大人になってゆくときに「自分なりの」世界観を形成してゆくために苦労するわけである。
(中略)
子どもから大人へとなってゆく青年期にそれが大いに揺れるのである。今まで安定していたものが揺すぶられ、破壊されて新しいものができあがってくる。このとき、既成のものの否定的な面が拡大して意識されやすいのである。

ここで、社会との衝突が起きるのでしょう。一番身近にある既成のものとは親でしょう。親の否定的な部分のみ拡大鏡でみてしまう。自分の思春期を振り返ってみても、そんなことありました。
親からしたら気が気じゃないです。危なっかしくてしょうがないです。
つまずきそうな石が見えているし、足を取られそうな沼も見えています。
できることなら、先に行って注意書きの看板でも立てておきたいくらいです。

自分の判断力を身につけるためには、子どもたちは、ある程度は、自分の判断によって行動し、その当否を自らの経験によって確かめることをしなくてはならない。

親の言いつけをなんでも守って進めば安全ですが、それでは「私」という存在が生きていることになりません。自分の存在を確かめることを成長と捉えるなら、「つまづき」を通して成長していくと言えそうです。 

イニシエーション

ここで、「未開社会における子どもと大人の区別」と「現代における子どもと大人の区別」を比較してみます。
未開社会ではイニシエーション(通過儀礼)によって明確に子どもと大人を区別しています。
現代社会の特徴の一つは、イニシエーションを止めたことにあります。
ここでいうイニシエーションとは、現代の成人式のような単なる形式上の儀式ではありません。
「子どもの私が死に、大人としての私が再生する」
そして、大人の形成する社会の成員として迎え入れられる。
そこには、明確な線引きがあります。
現代でイニシエーションを廃止した理由には世界の「進歩」があります。
未開社会の世界観が固定しているのに対して、現代社会の世界観は流動しています。
一世代違えばまったく異なる世界を生きていると言えるでしょう。
固定した社会であれば、そこに入れてもらえばいいわけですが、
流動する社会では、一旦は入れてもらっても、社会自体が変われば弾き出されてしまいます。
このことから、一回のイニシエーションで終わりという考え方が成り立たなくなったと言えます。
制度としてのイニシエーションがない以上、個人として経験する他ありません。
それが「つまづき」として現れます。

基本的安全感

「私」という存在の基盤は何でしょうか?

人間がこの世に生まれて育ってくるとき、まず、新生児から乳幼児期に至る間に、母子一体感とでも言うべき感情を十分に体験することが極めて大切である。
(中略)
そのような一体感を基礎として、人間は育ってくるものである。このような母性的なものによって包まれている感情は、文字どおり肌の触れ合う体験を通じて得られるものであり、理屈抜きの感情として存在している。
(中略)
その後、母親との身体接触は少なくなるが、家全体としてもっている、子どもを包みこみ外界から守る雰囲気は、子どもの発育を支えているものである。これは子どもの発育に必要な基本的安全感と呼ぶべきものである。

「私」という存在をみたとき、「エゴ」は無視できません。
エゴとは、簡単に言うと「私が、私が!」という思いです。
エゴは私という存在を守ってくれる大切なパートナーです。
どうして守る必要があるかといえば、基本的安全感が足りていないからだと思います。
基本的安全感が足りていれば、エゴを強化しなくても「私」という存在は守られています。
家庭内で基本的安全感を満たせないとき、外に求めようとします。
何かと繋がっていたいという思いはアイデンティティーの問題とも結びつきます。
一体、「私」という存在は何なのか?
どこから来て、どこへ行こうとしているのか?
そんな疑問を抱いたとき、アイデンティティーが揺らぎます。
揺らぐアイデンティティーのアンカーになってくれるの基本的安全感でしょう。

大人とは?

大人の条件は何でしょうか?

単純に他人を非難せず、生じてきたすべての事象を「わがこと」として引き受ける力をもつことこそ、大人であるための条件であるといえるであろう。

よくありますよね、「皆んなそう言っている」っていうとき。
これは、「わがこと」として引き受けていないわけですね。
当事者意識ともいえるとおもいます。
私自身振り返っても、この条件は満たせていないです。
どこか他人のことのように見てしまっています。
これは対人関係に大きく影響してきます。

子育ての在り方

子育ての在り方をみたとき、一方では西洋的な在り方を取りいれながら、その根本では日本的な在り方に基盤を置いているとなりがちです。西洋人と日本人の在り方は異なるのだという認識が必要であると感じます。

西洋人の自我は他と切り離して、あくまで個として確立しており、それが自分の存在を他に対して主張してゆくところに特徴がある。それに対して、日本人の自我は、あくまで他とつながっており、自分を主張するよりも他に対する配慮を基盤として存在している。

このように、西洋人と日本人では基盤が異なります。そのことを意識しておく必要があるでしょう。

われわれは子どもを育てるときの基本姿勢としては、知らず知らず日本流にやっていながら、知的には西洋流にやっていることを反省するべきではなかろうか。

TVなどで見た海外の教育をまねて取り入れても、結局は基盤が日本にあるので、そのまま取り入れることはできません。じゃ、どうするの?

われわれにとって今もっとも大切なことは、従うべきモデルが無いことを、はっきりと認識することではなかろうか。

How to式のモデルはもはや通用しない社会なのです。
ネットで検索すれば答えが出てくるようなものは、本質ではないということでしょう。
で、結局どうすればいいの?ってなりますよね?

モデルが無いことを認識し、モデルの無いところで自分なりの生き方を探ってゆこうとし、それに対して責任を負える人が大人である、といえるのではなかろうか。大人になるという決められた目標があり、そこに到達するというよりは、自分なりの道をまさぐって苦闘する過程そのものが、大人になることなのである。

分かりましたね。
私は大人になっていなかった。
まだまだ、つまずきが足り無いのでしょう。
子育ての在り方は、自分の生き方を通して語るものだと思います。

成長

成長していくということを見守るのは、藪を払い、整地し、レールを敷き、転ばぬ先の杖となることではありません。基本的安全感というアンカーを与え、アイデンティティーとなり、積極的に様々な経験をさせてあげることなのではないかと思います。そこから、何を学び取るかは本人次第です。
そして、期待し続けること。

ある個人が本当に成長することは、「その人なりの」道を自ら見出し、つくりあげてゆくことであり、他人がかるがるしく教えたりできるものではないのだ。したがって、その間、その人が苦しい道を進んで行くのを見守ること以上に、することはないのであることはないのである。
(中略)
その人にできるだけの自由を許し、常に期待を失わずに傍にい続けることだといえるだろう。
(中略)
人間には潜在力があり可能性がある。そして、それは期待を失わずに見てくれている人との人間関係を土台として開発されてくるのである。
(中略)
世の中に「同じ事」など起こるはずはないのである。同じ事の繰り返しなどという前に、何か変わったことはなかったかとよく考えてみる必要がある。少しでもよい変化があれば、それに期待をよせてゆくのである。

大人のなかの子ども

成長することは、創造することでもあります。頼るモデルがないのですから。

現代時にとってモデルは無いといったが、モデルの無いところで、自分なりの生き方を探ることは、すなわち、創造ではないだろうか。つまり、われわれの人生そのものが、ひとつの創造過程である、というわけである。

創造は空想から始まります。100年後の未来はこんなことが実現しているんじゃないかと空想する。そこから創造は始まり、実現します。創造、イマジネーションは内的な活動です。

子どもは外から与えられ、外からつめこまれるものが多すぎて、彼のうちからの情報としてのイマジネーションをキャッチする力を失ってしまうのである。このことを、物質的に豊かな時代に生きる親たちは、よく心得ておかねばならない。

私もなんのことはない、ただレールに乗って大学院まで修了しました。
中学生のころまでは空想に胸躍らせていました。
しかし、いつのまにやらイマジネーションをキャッチする力がなくなってしまいました。
情報過多の時代です。
TVから流れてくる情報、ネットから流れてくる情報に溺れていませんか?

真の大人というものは、そのなかに子供っぽさを残している人だ、というふうにはいえないだろうか。ここにいう子どもとは、世の中のことをすべて決まりきったこととは考えずに、あらゆることに疑問をもち、イマジネーションをはたらかせる存在だということである。
(中略)
大人になっても、自分の心のなかに住んでいる子どもを、殺さずに生かしておくのである。
(中略)
大人になることは、子ども性をまったく放棄することではなく、むしろ、子どもをうまく大人のなかに残してゆくことが、真の大人になる道であることを教えてやると、随分と気が楽になるのではなかろうか。

スティーヴ・ジョブズに代表されるような創造する人とは、自分のなかの子どもを大切にしている人だと思います。内山興正老師の著書に触れると、その子ども心に気がつきます。

大人のなかの子どもは実に貴重な存在であるにもかかわらず、現在の教育においては、子どもたちを早く大人にしようと焦りすぎていないかを反省すべきである。

社会の要請に急かされすぎてはいないでしょうか。
本当にやりたいこともわからず、ただただレールを走り、会社で働き、消耗していく人が多いように感じます。私もそうですが・・・

何かを「好き」と感じることは、内からの情報の最たるものである。ともかく、好きなことはできるかぎりやるべきである。

子どもの「好き」にもアンテナを立てておくことはもちろんですが、自分の「好き」にもアンテナを立てておきたいです。大人とは自分のなかの子どもを大切にしている人なんですから。

対極性のなかに身を投げ出して、そこに生きることを学ばねばならないし、われわれ大人がまずそれをやり抜いて行かねばならないのである。
人生のなかに存在する多くの対極に対して、安易に善悪の判断を下すことなく、そのなかに敢えて身を置き、その結果に責任を負うことを決意するとき、その人は大人になっているといっていいだろう。

大学時代の教官が仰っていました。
「白黒はっきりつけたがるが、社会はグレーなものだ」

私自身、社会人をやってて感じます。
正解は一つとは限らないし、立場によって回答も変わってくる。
グレーな中から自分の最善と思うもので納得してもらうことが必要です。
そして、その結果に責任を負うことを決意すること。
難しいですね、大人になるって。
青年期から大人になる間の難しさについてが主題でしたが、
子育て全般に対してとても示唆に富む内容でした。
また、自分自身の在り方を見直すきっかけともなりました。
あまりに良かったので、2回読み返しました。

もし、心のどこかに引っかかるものがあれば、是非どうぞ。

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2016-11-26 | Posted in 子どものこと, No Comments » 

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