一人の時間を持つ


ダライ・ラマ法王の人生の18ヶ条にこんなのがある。

Spend some time alone every day. 

毎日いくらかの時間を一人で過ごしなさい。

額面通り受け取れば、一人であればいいように思える。例えば、1人で本を読んだり、休んでたり、極端な話、テレビを見ていたりと。

だけど、この言葉はそんなことを表現しているのだろうか?

どのような状態が一人で過ごしたことにあたるのか?

また、なぜ、毎日一人の時間を少しでもいいから持つことを勧めるのか?

今回は、このことを考えてみたい。

わざわざ人生の18ヶ条というくらいだから、物理的に一人しかいない空間に身を置くことではないだろう。
だから、〜しながら一人でいることではない。

一人になるというのは、自分と向き合うということだと思う。私対◯◯ではなく、私対私だから一人なのだ。
そうすると、自分と向き合うことが人生において重要であるということを法王は仰りたいのだろう。

自分と向き合うとはどういうことなのか?
さっきは、私対私と書いたが、これも違うように感じる。
「対」ということはそこに対立構造があることを意味している。
私と私が対立している以上、一つになっていない、つまり、一人ではない。
「私」と「私」。
あたかも、「私」が二つ存在するように読み取れる。
実は、「私」は二人存在する。
「本当の私」と「エゴの私」。
普段、「私」だと思っているのは「エゴの私」であることが多い。
本当の私が青空だとしたら、エゴの私は雲にあたる。
雲に覆い尽くされた空をずっと見ていたら、その向こうに青空があることに気がつくだろうか?
時たま、雲の隙間から青空が見えることがある。
その時間を持つことが、一人でいる時間を持つことだと思う。

ここで誤解してほしくないのが、「エゴの私」が悪者だと思わないでほしいということ。
雲がなければ雨が降らず、生きていけないように、
エゴの私がなければ、人は生きていけない。
知ってもらいたいのは、普段のあなたは「エゴの私」であって、その奥に「本当の私」がいるんだっていうこと。

対立構造と書いたが、「本当の私」と「エゴの私」を見つけても、依然対立構造のままだ。
対立している以上、一つになることはない。
だから、対立を止めて受け入れることを学ぶ必要がありそうだ。
そのためには、まず、「エゴの私」を知る必要がある。

子どもが育っていく様子を見ていると、「エゴの私」が育っていくところも見ることができる。
「エゴの私」は自分を守るために抱えたもう一人の自分であり、
自分を守るために置き去りにしてきたインナーチャイルドである。

あなたの内なる本来の家に帰り、自分を大切に扱いましょう。まず身体、そして感覚、さらに思いという心の形成に対して。まず思いの固まりが自分の心に存在することを認めましょう。それにしがみついたり、しまっておいたり、執着することなく、かといって忘れることもせずに。これが心をありのままに認識することです。その存在に気がついたなら、本来の名前で呼び、「ここにいて大切にするよ、君は私自身なのだから」と話しかけましょう。

 

自分という家に帰りましょう。
(中略)
家に帰るのが怖いのは、私たちが自分の身を守る道具や手段を持ち合わせていないからです。気づきを身につければ安心してそこに戻ることができ、痛み、悲しみ、鬱屈などに打ち負かされるなくなります。気づきとともに家に帰り、心の中の傷ついた子ども(インナーチャイルド)にこのマントラ(魔法の言葉)をあげましょう。
「愛するぼうや、ただいま。いつでもここにいて、抱っこしているよ。長いこと放っておいてごめんね」。

ブッダの<呼吸>の瞑想
ティク・ナット・ハン著より

この箇所を読んだときのことは鮮明に覚えている。
狭いカフェの壁に面したカウンターで読んでいた。
「愛するぼうや、ただいま。いつでもここにいて、抱っこしているよ。長いこと放っておいてごめんね」のところで、涙がこみ上げてきた。

僕が瞑想を初めてやったとき、とても怖かったことが印象的だった。
なぜ怖いのかは分からなかった。
なんだか、自分の中にポッカリと口を開けた暗闇があるようで、怖かった。

今なら分かる。
その奥に僕が置き去りにしてきたインナーチャイルドがいたのだ。
光の届かない暗い場所に・・・

心の奥に光を届けること。
それが、一人でいる時間を持つことだと思う。

この記事は「子育て」にもカテゴライズしている。
なぜ?

それは、子どもという自分より弱い存在、自分が保護しなければならない存在、だけど思い通りにならない存在を前にして、
「エゴの私」がエンジン全開で吹き出してくるからだ。
このことを知っているか知らないかで、行動が決まってしまうと感じている。

自分の中に置き去りにしてきたインナーチャイルドが、刺激され、自分の子どもに連鎖していく。
これは、自分と子どもの間だけでなく、親と自分の間でも起きてきたこと。
だから、自分の親の中にも苦しんでいる子どもがいることが分かる。

毎日少しの時間でいいから、私が私と一つになる時間を持つことで、
遮っていた山が少しずつ削られ、光が届くようになる。

身体の変化を感じて、
呼吸に気づいて、
自分のなかにどんな思いがわいてくるのか観察しよう。
最初は、認めて受け入れることが難しいだろう。
それならそれで、泡ぶくだと思って捕らわれることなく出してあげればいい。
水面まで浮かんでくれば、より自由な空間へ解放されていく。

一人の時間を持って、「本当の私」に帰っていく。
そして、日常に戻っていく。

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2016-07-28 | Posted in 子どものこと, 癒しNo Comments » 

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