児童文学が読みたくなる本


最近、児童文学に興味津々です。
児童文学と聞くと、冒険とかファンタジー作品で大人が読むにはちょっとってイメージでした。
だけど、児童文学を成長の過程における内面の心理描写だと捉えると、違った側面が見えてくるんだってことが分かりました。

そのきっかけは、河合隼雄さんの本です。
河合さんは臨床心理学の第一人者です。
河合さんによると、優れた児童文学は臨床心理の現場で体験することと親和性があるようです。

児童文学ではありませんが、村上春樹さんの作品も自己の心理描写だと捉えると、なるほど、うまく表現しているなと感じます。

同じことが児童文学でも言えるんです。

 

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たましいからの声を聴く

人は身体という物理的なものと、心という心理的なものから出来ていますが、それを統合する力としての「たましい」からの声を扱っているのが優れた児童文学なんじゃないかと感じます。

人間存在を身体と心とに割り切って考えた場合、どうしてもそこに取り残されるもの、あるいは、身体というものを統合して、一人の人間存在たらしめているもの、それがたましいである。

河合隼雄 著 ファンタジーを読む

人間存在の不思議さに目を閉じてしまったのが、ぼくたち大人です。
それは、目を閉じることで社会性を身につける一方で、たましいからの声に耳を塞ぐことなんでしょう。

そんなぼくたちでも、たましいからの声を聴くことは出来ます。

 

夢が果たす役割

寝ている時に見る夢に意味づけすることをどう思いますか?
少なくとも、時代の経過とともに夢の力は失われてきました。
科学が発達することで、夢は覚醒時に蓄えた情報を整理している過程で見ているんだと分かってきました。
そのことを承知で敢えていうと、やはり、夢はたましいからの声という側面もあると思っています。

「側面」と表現したのには訳があります。
夢には二種類あるんじゃないかと感じているからです。

一つは、科学が指摘する情報整理としての夢。
もう一つがたましいからの声としての夢。

両者の違いが何に起因するかというと、意識状態の違いだろうと感じています。

それは、人間存在の不思議に目を開いているかどうか。
つまり、意識レベルが深化しているかどうかということです。

お釈迦様が菩提樹の下で悟りを開く前に、マーラーとの対決があったといわれています。
マーラーは自己の外面に存在しているのではなく、内面に存在している私自身の影であり、その影と最後に対峙しなければならなかったと捉えることができます。

影といえばゲド戦記が本書で紹介されていて、ジブリアニメで映画化された当時はよくわかりませんでした。実は、とっても奥が深い物語なんですね。一度、ちゃんと読んでみようと思います。

お釈迦様に話を戻して、
マーラーとの対決とは、瞑想を通し、自己の内面との接触が行われ、それがイメージとして湧いてきたんだと思います。

これは、意識レベルが深化していたから起きたことでしょう。

日頃の在り方が意識レベルの深化へ繋がったとき、現れる夢はたましいからの声です。
ぼくも何度か聞こえてきたことがあります。
見事に大切な部分を突いてきました。

 

大人視点で読む児童文学

子どもに戻ることはできませんが、一方でいろいろ経験した大人だからこそ見えてくる児童文学の世界っていうのがあります。

児童文学に出てくる子どもたちの心理を紐解きながら、自分が子どもだったときにどんなことを感じていたのか思い出すこともあります。

子どもの心理描写から、今の自分を振り返ってどういったことが楔となっているのか深く見つめる手助けになります。

なにより、夢のような物語には、理性では捉えられない話の展開があり、ワクワクした気持ちが蘇ってきます。

 

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2017-03-28 | Posted in , 癒しNo Comments » 

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