意識を降りていった先にある「空」


河合隼雄さんの本に夢中になってるんですが、
現場を持っている人の言葉って深いですね。
そんな河合さんが語る「空」と「無意識」の違いから思ったことをまとめてみました。
虹を7つの色に分けて捉えるか、グラデーションと捉えるかです。

 

スポンサーリンク

般若心経にみる意識の「空」化

河合さんの本から引用します。

「空」を認識するためには、それを見る主体としての意識の側にも「空」化がおこらなければならない。つまり仏教で言うところの「分別心」すなわち、物事の一つ一つを区別し、その差異を見ようとするような日常の意識を「空」化することが必要です。ここで、人間の意識のあり方ということが深く関係してきます。これをイメージ的に表現すると、意識のレベルをだんだんと下降させる、とも言うことができます。そして、それを極端に下降させたとき、つまり意識の「空」化が生じたときに見ることのできる世界が、例えば「華厳経」の中に描かれている世界だと思います。

『私が語り伝えたかったこと』より

ぼく達が日頃生活している中で、主体と客体を意識することは少ないです。
ある現象を認識するには、観察する観察者がいないといけないわけで、
それが主体と客体です。

しかし、観察するという行為自体によって、現象は影響を受けてしまい、本来の姿を見ることはできないことが知られています。
ものごとをありのままに観察しようとするなら、同じ地平に立つ必要があるでしょう。
それが、日常の意識を「空」化することです。
「空」といわれてもピンとこないので、イメージ化すれば、意識レベルは虹のようにグラデーションであり、深化していった先に「空」化が生じるということです。

 

西洋の意識

西洋の人がこれをどのように捉えるのか、またまた引用してみます。

西洋の人は、これを「無意識」という言い方をしています。もともと西洋の場合は、日常の意識を大切にし、それによっていろいろなものを弁別することを重視します。そしてそれ以外の意識できない意識のことを、すべて「無意識」と呼んだわけですね。したがって、西洋で起こった無意識の研究は、だんだんと仏教的な考えに接近してきたのだと思います。

『私が語り伝えたかったこと』より

東洋的な世界観では、意識はグラデーションのように連続しており、それ自体が変化していくのに対し、西洋では認識する主体の意識に変化はないため、無意識を認識できないものとしか見ることができません。

 

意識を降りていく

静かに座って、体の感覚に意識を向けます。心のざわめきが落ち着いてきたら、呼吸に意識を向けて感じていきます。そうすると、次第に意識の深化が始まり、降りていくことができます。
虹がグラデーションであるように、意識にもグラデーションがあることが分かるでしょう。

では、降りていった先に「空」が「ある」のか?

残念ながら、ぼくはまだ違うと考えています。
ここまではグラデーションでしたが、あるところまでくると、立ち位置がまったく変わるときがきます。そこが「空」なのではないかと感じています。

 

整える

葉がどんどん落ちてくる庭でほうき片手に落ち葉集めしているところを想像すると、嫌になるかもしれません。
だって、集めてるそばから、どんどん落ちてくるんです。
ぼく達の頭の中も同じです。
意識を深めようと思っても、どんどん考えがわいてきます。
だからといって、落ち葉集めを止めませんよね。
それと同じで、気づきを向け続ければいいんです。
座っているときだけ整えるのではなく、日常のすべてを整えてみましょう
葉が落ちてくるのは座っているときだけではないですもんね。

そうすると、今日という日が、うれしい日なんだと気づくと思います。

スポンサーリンク
2016-12-21 | Posted in , 癒しNo Comments » 

関連記事

Comment





Comment



CAPTCHA